昭和五十七年九月三十日 朝の御理解
御理解 第四十五節 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと眼がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭を下げることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ」
知らぬこと、わからぬこととは言いながら、人間の幸福の条件を頂かずにしまうようなことが沢山あろうと思います。合楽教会で教えられる、いわゆる教祖の御教えを元にして、御教えを頂くわけですけれども、本当に知らぬこととは言いながら、分からぬこととは言いながらおかげの受けられぬ生き方を、それがいかにも本当のことのように思い込んでおかげが受けられない。
「不浄、穢れも自分の心一つで払うこともあれば、それを犯すこともある」とこう仰せられます。「自分の心一つですべてを創る」と合楽教会では言われますが、自分の心一つを、いわゆる、おかげの頂けれる使い方、世界に住まわして頂かなければならんのです。 「三宝様踏むな」と言うような表現で教えておられますが、まあ大切なもの、仏教的に言う、まあ言葉でもありましょうね。けれども、人間が幸福になるという観点。人間がいよいよ豊に大きく美しうならして頂けれる手立てというのは、御教えにありますように、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かると。あれはおかげではない、これは神様に対するお粗末ご無礼だと、たとえば思うておったようなことの中にもです。自分の心一つで、「おかげ」とこう頂き止めるおかげの世界を広げていく手立てが説いてあるのが、私は御理念だと思います。
昨日、テレビで、何か身の上相談のようなことを受けておられる何か番組がございますが、初めて見ましたが、どっかのお坊さん、まあ偉いお坊さんでしょうね。テレビにでも出られるのですから、その方がお釈迦様の教えだという歌をあげて、それに、まあ悩みに答えておられたんですけれども。人間はね、生まれてからね、段々仏様から遠のいていくという、まあお歌があるそうです。生まれた時には、もうそれこそそのままが仏様なのだけれどもね、段々年を取るにしたがって仏様からは遠のいてしまう。私共はね、そういう言葉を聞いて、成程と合点しておった時代があったんですね。
ところが、教祖の御教えを広く深く頂いてまいりますと、教祖の神様の御教えはそうじゃないようですね。成程、私共は生まれた時にすでに生神の性根を頂いてこの世に生を受けておる。成程、それに我情がつき我欲がついてまいりますけれども、その我情我欲そのものを、金光大神はね、人間が人間らしゅう生きる手立てを説かれたんですね。
人間が人間らしゅう生きるということが仏様から離れて行くというのではなくてね、その情も欲もね、神様からのお授かりもの、神様からお与えを頂いておるものとして、言うならばね、御事柄として、御欲として頂いていくということ。御情として頂いていくという生き方、ああそんなことしよったらバチかぶりゃせんかというのじゃなくて、そうではなくて、いよいよ広く大きく豊かにおかげが頂いていけれるのがお道の信心である。
そういうところにですね、今までの、たとえば、宗教者が言ってきた観念というものが、いかに言うならば自分の心一つですべてを創っていくという合楽理念から、自分の心でお粗末でもない、御無礼でもないことを、お粗末と思うたり、御無礼だと思うたりね。人間には何ですかね、百八つの煩悩があると言われております。しかもその煩悩があっては助かりにくい。仏様からいよいよ遠のかっていくというのではなくて、勿論、お道の信心でも、これ合楽でも、人間は土よりいでて土に帰って行くのであるから、その道中とても土の心でということは、言うなら、天地の心でということですね。天地の心を体得して、日月の心を持って、それを実験実証していく生き方の中から、もう限りなく広がりに広がっていく豊かな世界を頂いていけれるのがお道の信心なんです。
昨日は教祖生誕祭で、いつもお年寄りの方をお招きして、演芸なんかが、まああります。福引きなんかもあります。その福引きがいろいろあるが、中に私が頂いた札は豊かに美しく、「大きく豊かに美しく」という札であった。もう本当に豊かに大きく美しくおかげを頂いていくとね。「大きくもならなんならん、豊かにもならなきゃならない。いよいよ美しい心にならなきゃならない」と言うと、これは大変難しいようですけれども。なら、天の心・地の心を体得していく日課、毎日。ここは天の心で、ここは地の心でという御教えを踏みながら、おかげを頂いていくということは、決して難しいことではない。
それが豊かに大きく美しくおかげの頂いていけれる手立てが御理念に説いてありますから、体得していかなきゃならんが、隣に繁雄さんの席を設けてございましたが、繁雄さんの頂かれたのは、「日本一有難い私になりたい」という札であった。これはいつも私が願っておることでもあります。本当に日本一有難い私になろうとこう思う。有難くなるということはどういうことだと皆さん思いますか。
それには、今日私が皆さんに分かってもらおうとする、教祖金光大神の御教えがこんなにもね、豊かに大きく美しくなれれる教えがもう縦横無尽に説いてあるということを分かって頂きたいんです。大きくならせて頂くためにね、少しでも豊かになる手立て、大きくならして頂く手立てを、神様が下さるのだけれども、それを頂こうとしない。いわゆる問題を問題とする。本当に、はあ、そりゃあります。
いろいろ自分の心にはばからんようなことがあります。けれどもそのはばからんようなことがある時ほど、神様がより大きな心を下さろうとしておる時ですから、その事柄をです。うんぬんせずにその事柄を大きくなるための、まあ薬と思うて頂いたらいいのです。豊かになるための働きとして合掌して受けていったらいいのです。それを、これはいかん、あれはいかんと言うて自分の心を、言うなら受け物を小さく細くしていっておるようなことが沢山ありはせんでしょうか。私、合楽ではここんところを体得しなければ合楽に御縁を頂いておる値打ちはないと思うんです。
豊かに大きく、しかも美しゅうおかげが頂きたい。なら、美しゅうなるための手立てが、言うならば、はあここは天の心で行けよと説かれるわけです。豊かに大きくならせて頂く、もう材料を毎日下さってあるのです。またの言葉で言うとね、「とかく信心は地を肥やせ、地を肥やしておけばひとりでに物が出来るようなもの」と教えられるように、ひとりでに物が出来るように豊かなおかげを頂くことのためにも、それこそ心を肥やす肥料でもあるものを、こんなものはいけん、こんなものは自分の心の中には入れられない。これは一言言うとかにゃんといったようなことになってしまって、それを肥料を肥料としきらない。もうそれを懇切丁寧に合楽では説いてあるんですよね。
ここは土の心で、ここはいよいよ成り行きを尊ぶ、大切にするというふうに、だからそれを素直にすっと頂けばいいのだけれども、それを自分の心からはみ出してしまうから、心はいつまでも小さい心である。豊かな大きなおかげを願っても頂ける筈がない。神様が豊かなおかげを下さろうとする働きを、私共に日々こう下さってあるのを、私共が自分の心の中に受け切らない。そこを、まあ、場合には、泣く泣く辛抱するということもありましょうけれども、実験実証していくうちに、はああれが肥料であった。あれが豊かにして下さる神様の御働きであったと分かる時に、一切神愛ということが分かるのです。
だから私はね、いよいよ豊かに大きく美しくおかげを頂くことの為には、どうしても天地日月の心というそれを自分の日常生活の上に頂く時には、初めはきついようですけれども、本当のことが分かって体験が生まれてくると、それが本当に豊かな大きなおかげを下さることの働きであったと分かった時に、一切神愛ということになってくるのです。言うならば、あれもおかげであった、これもおかげであったと分かる世界。
昨日、久富繁雄さんが頂かれた、いわば、日本一有難い私になりたい。そういう有難い私になるためには、あれもおかげであった。これもおかげであったと分からなきゃ、有難くなれんでしょうもん。自分の周囲にこれはおかげじゃない。これは困ったことだと。これは難儀なことだと言っておったら、有難くなれる筈がない。その難儀を思うておった。困ったことであったり、これは許されないと思うようなことであっても、そのことを、あれもおかげこれもおかげと頂けれる心の状態が、私はいよいよ有難くなっていくことだと思う。
日本一有難くなりたいと思うなら、あれもおかげこれもおかげ。その中にです。昨日、その、あるお坊さんが言っておられた、「人間は生まれた時には仏様だけども、段々それにね、仏様から離れていってしまう」というのではなくて、もうこれだったら間違いなく仏様から離れていくでしょうね、人間というものは。けども、教祖の御教えを行ずることになるとです。人間が人間らしゅう、言うなら、百八煩悩と言われるような、その煩悩そのものもありがたいとして頂けるようになるですからね。
昨日、繁雄さんの引き当てられた、大きな額皿であった。その額皿に犬が大きく描いてある。犬というのは煩悩とこういう。だからその煩悩とてもね。言うならば、有難いとして、御の字をつけて頂けるような信心にならなければ、日本一有難いあなたになれないよと言うのが御理解であった。だから煩悩そのものがね、悪だとか、いけないことだとかね。煩悩があるから、仏様になれないといったようなものじゃなくてね。煩悩をいよいよ昇華していく、ありがたいものに、言うなら昇華というのは、華に化すると書いてある。それを喜びにかえていく手立てが、私、金光大神の御教えであり、それをいよいよ分かりやすくしたのが御理念だと思うんですね。
三宝様踏むなと、ね。成程、三宝様踏んだら、眼がつぶれる程しのことだけれども、その三宝様の内容が変わってくるのです。いわゆる、心一つで有難くも受けられれば、それが不浄穢れにもなるというのですね。だから、もう絶対、たとえて言うならばです。仏教では助からないということが分かります。もし、その煩悩があっては仏様になれない。人間は生まれた時には仏様だけれども、段々それが性根が変わってくる。欲悪煩悩がついてくる。だから、その欲悪煩悩をはずさなければ仏様にはなれないという道ですから、もうそれこそ、もう本当に一部の人でなからなければ、まあなれるということ。私は知りませんけれどもね。
たとえば、親鸞聖人様のように、妻帯肉食をなさったようなお坊様は、仏教のいわゆる名僧列伝の中には入ってないということですね。肉食妻帯をすることがね、俗の言葉の中にありますよね。坊さんが女を抱いたら、百万地獄におちる。その相手になった女の人は火の車ち言う。お釈迦様の教えはそんな教えなんです。だから、それを極めていこうとするとです。そういう、言うならば、百万地獄に落ちなきゃならなかったり、火の車にならなかったりせにゃならんごたる説いてあるのが仏教ですね。
金光大神の教えはそうじゃないです。勿論、我情は取れ、我欲は取れ。でなからなければ、我身は神徳の中に生かされてある実感というものは生まれてこない。我情こそ取らなきゃならん、我欲こそ取っていく手立て、それが、なら、取ろうと思うてもなかなか取れなかったものがです。んなら、ここは土の心で、ここは天の心で、地の心でというようなみやすう入っていけれる手立てを頂いて、また大きく豊かなおかげを頂きたいから、豊かにもなりたい、大きくにもなりたいと思うから、これこそ、豊かになる肥料だ。大きくなるための手立てだというふうに、それを合掌して受ける土の心を説くのですね。
はあ、我情我欲を取るということは、もう、私共もとても取れるもんじゃないように思うとったけれども、いよいよ教えを日々行じていくうちに、そこの久保山さんじゃないけれども、「いよいよ日々を成り行きを尊び、大切にさせて頂く生き方を身につけておりましたら、七年八年信心が進んでおるうちに、いつのまにか、我情が取れ、我欲が取れていっておる自分に気がつきます」と言っておられる。問題は、それに徹することなんだ。
日本一有難い私になるためには、あれもおかげ。これは御無礼。これは煩悩と言っておる間は、だからおかげにならんのですね。その煩悩こそ、神様に許されておるところのおかげであるというところまで高めていくということ。そういう豊かに大きくなれる言うなら手立てを、私共は踏み付けに今まではしておったように思う。そういう観念で言うならば、信心をいよいよ難しいものにしておったように思う。
だからと言うて、なら、合楽理念で行きゃ、もうどんなことをしてもよいかということではなくてです。そこに、言うならば、我情がいつのまにか取れてくる、我欲がいつのまにか取れてくる手立てがね、合楽理念の実験実証を日々ね、繰り返して、それを身につけていく喜び。楽しみを身につけていかなければならんということは勿論ですね。そのうちに、いつの間にかですね、我情が取れ、我欲が取れ、言うなら和賀心というものも、和賀心になりたいと思うけれどもなかなか出来ん。けれども、なら、土の心なら土の心でを、徹していくうちに、自分の心の中に与えられるのが、神様から与えられるのが和賀心なんです。
不平を言わんで済む、不足を思わんで済む程しの心そのものが和賀心なんですね。不平を言う、不足を思うておるその事柄そのものがね、有難く頂けれる心の肥料だとして頂けれる手立てが説いてあるのですから、その手立てを行じなかったら、だからいつまでたってもね、どんなに合楽理念をもってすれば、有難いです。簡単です。明瞭です。おかげが確かですと言うても、それを行じないならば、簡単でも明瞭でもおかげが確かなことになってこないのです。
人間の、言うなら百八もあるというその煩悩の内容をです。金光大神の御教えによって照らしていく時に、それが昇華されていく時に、それが高められていく時にね、その煩悩そのものも合掌して受けれる心、そういう心こそ、私は日本一有難くなっていけれる。特別ありがたいものが、横からやってくるのじゃなくて、その持ってるそのものの内容に、ありがたいものがあることを分からせて頂く。その有難い心に、言うならばまた有難いおかげは、ここ辺のところが間違いのないところですね御理念の。
有難い心になれば、有難いおかげが必ず伴うてくるんです。真の信心をすりゃ、真のおかげが必ず伴うてくるんです。私が頂いた、言うなら、豊かに大きく美しい。なら、そうなろうとしても、なかなかですけれどもね。言うなら教えを、いわゆる合楽理念の実験実証させて頂いてるうちに、心はいやが上にも大きく豊かに、しかも美しゅうなっていけれる手立てが御理念です。
だから、御理念を行じなかったら、いつまでたっても小さい心で、もう腹の立つことばっかり。不平不足を言うたり思たりせなんことばっかり。世の中にはね。そういうものを、私共が、自分の心の中から不平を思わんですむ、言わんですむ、むしろ御礼を言う心でいけれる手立てが御理念なんです。なら御理念は難しいことかと、ね。人間が人間を廃業しなければ、踏んで行けないような険しい道かというと、決してそうではない。人間が人間らしう生きながら、豊かに大きく美しゅう、それこそ日本一有難い私を目指していけれるのがお道の信心である。
今日の御理解で言うと、言うならばそういう手立てがあるのにもかかわらず、そういう手立てをね、踏み付けにしておるということが、三宝様を踏んでおるということになるのじゃないでしょうか、ね。
いよいよ御理念に基づく生き方をね、身に付けて、それこそ、日本一有難い私を目指す為には、あれもおかげ。これは、人間の欲望である。煩悩だからという間はおかげにならんのです。煩悩を思うておったその心の中にもです。それに、御の字をつけて頂けれるような心。あれもおかげ。これはおかげじゃないと思うておったそのこともおかげであると分からしてもらう。だから、有難いという範囲が、いよいよ広うなって、あれもおかげ、これもおかげと、分かってくるのである。そして、自分の心の中には、いつも自分で、自分の心に合掌しておれれるような、そういう信心が好きになるんです。
二三日前でしたか、久留米の石田先生の奥さんが、お届けをされます。もう本当に自分の心の中というのが、浅ましい。汚いとこう、まあ言われます。成程、教えの鏡を立てると、汚い、浅ましい心ばっかりですけれども、その合楽理念に実験実証さしてもらいよると、浅ましいと思うておった。汚い心と思うておった心の中にもです。すばらしい尊い心があることが段々分かってくると同時に、まあ私は申しました。「だから、問題は信心が好きになることですよ」と。
たとえば、衣装道楽をなんかなさる方達がね、表よりも裏に金をかけると言うでしょうが。着てこんなに気持ちのよいことはないと思うんです。表に現われてるより、裏に金をかけとるね、それは、衣装を本当に道楽する人は、そういう目に見えないところに金を使うように、信心が本当に道楽になる。道楽という言葉は、道を楽するということですから。
本当に信心が、その道を楽しませて頂くという信心が、言うなら好きになる、という事になるとです。四神様の御教えではないですけれども、信心して、目に見えるところだけは大切にします。けれども、目に見えないところを粗末にするといったようなことが絶対なくなるのです。バカらしかですもん。
これは、誰でん、見よらんけんで汚いことしてもええということはない。もう、そう、人が見よらんなら見よらんほど、それこそ、神様が御承知の世界、神様が見給う世界がわかってくればくるほど、言うならば表よりも、言うならば、裏の方を大切にせずにはおれないような心が育ってくるんです。信心をさしてもらいよると。 天の心、地の心、日月の心と、それに本気で取り組んで精進しておるとです。それこそ、自分ながら、自分の心が拝みたいような心が段々広がってくるです。大きくなってくるです。拝めないと思うておった心が拝めるようになってくるんです。なら、百八煩悩という沢山の煩悩が拝めない。ああこんなもんな汚いものだと取り除くのじゃなくて、それを拝んでいけれる心の状態が和賀心なんです。 教祖金光大神というお方は大変な御教えを、人間が幸せになるための御教えを説かれたもんだと。これは、合楽理念に基づいて、いよいよ分からして頂く思いが致しもす。人間が人間らしく生きるということがですね、横着であってはなりません。ターシンということが、支那語では横着、日本語では、大心と書いたら大きな心という。自分な大きな心のように思うておるけども、それが、横着な場合があります。合楽理念に基づくと、それが、横着であるか、大きな心であるかが、はっきり分かるように教えてあります。
大きな心には、限りなく大きくなっていかなきゃなりません。いよいよ豊かになっていかなきゃなりません。限りなく美しゅうなっていかなきゃなりません。だから、大きくなろう、美しくなろうとこう言うただけではなかなか大きくなりませんけれども、大きくなる、美しくなる手立てが日々あるのですから、それを大切にしていく事、その大切にしていく手立てが私は御理念だとおもいます。だから、実験していく人、実証していく人には勝ちませんね。
日本一有難い私になるためにはね、あれも、これはおかげ、これはおかげでないという間はおかげが狭いでしょう。あれもおかげ、これもおかげと分かる時、有難いおかげの世界が広がっていくように、いよいよ豊かに大きく美しゅうなりたい。なりたいだけじゃいかん。なりたいならば、いよいよ天地日月の心を心とする生き方をです。容易うひとつ行じていけれる。そこに楽しみが感じれれる。 これは、ひとつ、みんな思うてみなきゃいかん。これは自分の心にはばからんというような時には、いよいよ神様が大きな心を下さろうとする働きなのですから、まず、そのことに対して御礼を言わないかんです。
豊かなおかげを頂きたいならばです、豊かな心になれよと言うよんなさる時と思うて、それを、ちったきつかっても合掌して受ける気にならなければいけんです。いよいよ豊かな大きな心を目指しましょう。いよいよ日本一ありがたい私を目指しましょう。目指すだけでは、何か手立てがなかったけれども。何か今日の御理解を頂きよると、その手立てが、こう、おぼろげながらでも分かるような気が致しますね。
どうぞ。